きっと忘れない(といって忘れる)

昨日、「伝える努力」とか書いて、いきなりツイッターでハッシュタグとか使い出して、どうかしてました。

ちょっと広がりがないと、すぐスタンス変えだす、よくない、本当に…


もう芯ブレブレで、人気がないことが与える影響というのは恐ろしいなと思った。


ということで、急旋回からのまた急旋回、ほぼ前の状態に戻します。



先日携帯を落とした。


交番などにも届いておらず、一応届けを出して、まだ見つかっていない。

というか、ある場所は大体わかっているんだけど(家用のiPadで位置情報は掴めている)探しに行ってもモノが見つからなかった。


で、まだ見つかっていないので音信不通状態が続いているのだが、そんなことを書きたい訳ではなく、物を失くす、ということについて考えてみようと思った。


昔から物をよく置き忘れたりする。


カバン、携帯、鍵、傘、帽子などなど忘れてそのまま失くなってしまった物は数知れず、財布も何度もいろんな所に忘れて、交番にお世話になったり、一緒にいる人に迷惑をかけたりした。

つい先日もトートバッグをとある店に忘れ、取りに行かずにそのまま…


銀行のATMでお金を取り忘れ、それを誰かに持って行かれて警察沙汰になったこともある。(もちろん取られた側で、ですよ)


幸運なことに、ATMのお金も財布もいつも戻ってきて事なきを得ているのだが、今回の携帯はちょっと難しいかも知れない。


で、物を置き忘れる時、大体後から思い出して、その忘れた場所を覚えていない。

あれー、どこに置いたっけな…あそこか、あそこか、あの時の可能性もあるな、とか、どうもその時の様子がはっきりしないのである。


つまり置き忘れる時、別のことに気を取られているか、別のことを考えているか、あるいは全くの無か、よくわからないけど、置いたものの存在を忘れている。


脳や身体の働きの中で、実際に意識してどうこうできる部分というのは実は少なくて、ほとんどの機関は意識できているかに関係なく動き、つまり自分の思考や意識として認識できている部分とはまた違う脳の部分が色々な指令を出したり、あるいはその部分部分で判断したりなどしていることになる。


自分の意識として認識できる部分からしてみれば大切であり、失くしたくないものであっても、それ以外の部分や組織からすれば関係はなく、簡単に忘れる。

(というか、忘れる、という認識すら多分ない)


そう考えると、自分の意識と認識できるものとは全く別のものが脳や身体の中には存在していて、それなのに自分は自分という存在として自分を認識している。


それはすごく不思議なことだと思う。

自分が自分の主人だと思っているのは思いあがりで、実は別の存在の手の平の上で踊らされているだけなのかも知れない。


こんなことを考えたからといって、置き忘れることが減る訳ではなく、何か良い対策が思い浮かぶこともなく、また何かしらを忘れ、失くし、手にし、というのを繰り返すのだろうな…


このことについてはまだまだ継続して、考えていきたいと思う。

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