少し前、某ファーストフード店にいた時のこと。
隣の隣の席に若いカップルが座った。
別段気にも留めずいたのだが、時々聞こえてくる会話が、どうもカップルらしからぬ感じで、気になってちらと見てみると、男性の方は高校生くらいと思われ、女性の方はもう少し大人で、20代前半くらいであろうか。
「なぜ生きているのか、ということを考えることが、逆に生きることへの妨げになる気がする。」
男性の声。
店内の軽快なBGMとは対照的な、非常に切実なトーンであった。
これまで「なぜ生きているのか」ということを考えることはあった。
あったが、そこまでの逆説的な発想に行きつくことがなかったので、頭をガツンと殴られたような気がした。
そして彼の、その、逼迫した切実さも、だんだんと本気でそういうことを考えることがなくなってしまっていた自分には、痛かった。
ひと言だけで、その頭の良さと本気さに心を打たれ、悩める人には申し訳ないが、羨ましい、と思ってしまった。
女性の方が、ヴィトゲンシュタインのナンタラという本があって…、というように色々本を勧めていて、男性はそのタイトルをメモっていた。
恥ずかしながら、人生の中でヴィトゲンシュタインの本など一冊も読んだことがなく、どういう内容なのかも全く知らない。
でもその様子を見ていて、勝手に「めちゃくちゃいいな」と思った。
生きることを深く考えるほど、表層での生きること(所謂社会的な生活)に関して、色々支障が出てくるのは、何となくわかる。
そういうことに心を取られると、周りの人間が酷く軽薄に思われ、くだらないことばかり話していやがって、こんな深いことを考えている自分てすごい、と、嫌悪感と、変な優越感を勝手に感じ、周囲を軽蔑、そのうち憎み、誰もわかってくれない、ふざけんな、みんな死ね、とか思うようになり、果ては車で歩行者天国へ突っ込み無差別殺人をしたり、警官から銃を盗んで無差別殺人をしたり、カルト宗教の教祖となり無差別殺人をしたり、するのかどうかはわからないが、とにかく、世の中と自分の内面や思考との差異を感じ、アウトサイダーな方面へ向かっていくことになるのは確かだと思う。
そこで要領よく社会的なこともこなしながらやっていける人はいいのだが、そういう方向にどっぷり浸かり抜け出せなくなると、非常に生きづらくなる気がする。
哲学者の中島義道さんの本を読んだ時
「哲学者とは真理の探究者である、と思っていたが、社会的な哲学者とは、カントだのヘーゲルだのに対しての論文を書き、それを認められた人物であり、自分の思っていたものとは違った」
というようなことが書いてあった。
哲学なんて特殊な世界でもそうなので、一般的な社会生活に真理探究なんてことは、百害あって一利もないのかもしれない。
でもそれでもそういうことを考えるのをやめられないからそうなのであり、簡単にやめられたらたぶん苦労はしないのだ。
以前、現代の社会の中で人は人生の半分くらいの時間、仕事=金儲け、をしている、と書いたが、それに興味のない人、うまくやっていこうという気がない人、もしくはそれができない人は、必然的に社会との距離ができてしまうのであり、「真理探究」ということをうまく社会的にフィードバックできる人以外、アウトサイダーな道を行くことになるのは仕方ないのかもしれない。
とにかく、どんな人生でも、本人は本人としてやっていくしかない訳で、他人と比べても仕方ない訳で。
死ぬことが人生の終わりなのだとしたら、生きること全ては過程でしかない訳で、ならば、どう生きるか、が人生の目的であり、死を前提として、なぜ生きるのか、という問いは、必然的に直面せざるを得ないものではなかろうか。
それは死に近い人ならよりわかるようになるのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
老いていくほどそういうことを考えるようになるのかもしれないし、ならないかもしれない。
自分の意識や願望、思考に関わらず、終わりはやってくるし、とりとめのないものである。
死は人間に避けられない出来事だが、死を人間社会では規定できない。
なぜなら、死は社会を無効化するからであり、社会は死を内包できないからである。
生きることを考える=死ぬことを考える=社会的に規定できない=社会生活に於いては意味を持たない、とは言い切れないものの、現世利益的なものからは離れざるを得ないのだな、という結論なのか何なのかよくわからない感じですが。
サルトル、マルクス並べても、明日の天気はわからねぇ、てか。
今日はこれで終わります。
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