こども、という人たちがいる。
私は彼、彼女らが好きなのだが、それには色々理由がある。
愛らしい、可愛い、もちろんであるが、一番は、純粋だから、かもしれない。
こどもさんたち(あえてさん付けする)のキラキラした輝く目を見ていると、かつては自分もこんな目をしていたはずなのになぁ、と思ってしまう。
よく親子連れなどを見ているのだが、こどもさんたちはあっちを見たり、こっちを見たり、変なものを見つけて喜んだりして、でもそれに比べて、一緒にいるおとなさんたちはそんなこどもさんに全く無頓着であり、スマホを見たり、何かムヅカシイ話をしたり、している。
「ねえ!見て見て!ダンゴムシ!!」
(未だに、なぜこどもの頃あんなにダンゴムシが好きだったのか謎)
「ほら、いいから、もう行くよ」
そう、おとなさんはおとなさんの都合が大事であり、こどもさんとダンゴムシのことなどどうでもいいのである。
要は住んでいる(見えている)世界が違うってことだと思う。
そりゃあおとなさんもおとなさんで色々大変で、そちらの都合を優先してしまうのもわからなくもないが、そもそもこどもさんのそういう世界の見方に気づいていない、というのをいつも感じる。
貯金額や、今日の夕飯や、株価や、有名人の結婚や、そういうのも大事かもしれないが、ダンゴムシだってとても大切だ。
ただ、ダンゴムシというのは人間社会ではほとんど意味を持たないから、おとなになるにつれ、人間の「社会」というものに浸かれば浸かるほど、そういうものが見えなくなってしまうのである。
こどもさんたちが、じっと気になる対象のものを凝視しているのを見る。
それは世界を観察し、把握しようとしているのだと思う。
こどもさんたちの見方というのは人間社会から外れたものなので、社会の枠組みの中で生きているほとんどのおとなさんたちには不可解で、興味もなく、「また言ってらぁ」くらいのもんである。
身体はでかいし、人間界では彼らの庇護を受けて暮らしていくしかないので、どうしても彼らに従うしかないのだが、無理解なおとなの元で生きていくしかないこどもさんたちは、残念ではないだろうかという気はする。
こどもさんたちと同じような見方ができるおとな、というのはきっとおもしろいし、憧れる。
それは人間社会の中だけに留まらない視野を持っているということであり、人間社会とは別の世界が存在する(それはつまり虫の世界とか、植物の世界とか、何でもいいけど)ことを知っていて、それに興味を持てる、ということである。
ダンゴムシに感動するおとなでありたかったが、もう無理なので、せめて、こどもさんたちの見方を尊重できるような人間でいることができればな、と思う。
最後に、好きなサリンジャーの短編「テディ」の一節を抜粋しておく。
…しかし彼らはぼくやブーパーをーブーパーってのは妹だけどーそんなふうに愛してはくれないんだな。
つまり、あるがままのぼくたちを愛することはできないらしいんだ。
ぼくたちをちょっとばかし変えないことには愛せないらしい。彼らはぼくたちを愛すると同時にぼくたちを愛する理由を愛してるんだ。
いや、理由を愛してるときが大部分だな。そういうのは感心しないよ。
終わります。
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