瞬間、心、重ねて

風景画、というのがある。

風景写真、というのもある。


文章では、あまり、風景のみを描いたもの、というのは(知らないだけかもしれないが)見かけない。

俳句ではあるが、その中にも自分の心情が仮託されていたりと、なかなか風景そのものだけを描写して作品を成立させる、というのは難しいのだろうか。


映像も、風景だけを映したものはあるだろうが、どちらかといえばBGM的な使われ方であり、それを熱心に見るとか、そういうことは少ないと思う。


風景画や風景写真の中にも、自分の気持ちを託したりしている人もいると思うが、どちらかといえば風景そのものについての感動や、印象を収めるといった意味合いの方が強い気がする。


音楽もフィールドレコーディングはあるが、やはりBGMだったり、音源の中の素材だったり、といった使われ方であり、それ自体を特別にフィーチャーされることはあまり無いと思う。


絵や写真というのは静止しているので、時間の流れというのは、映像や音楽のように強制的ではなく、見る側に委ねられる。

文章も読む側に時間の流れは託されている、と思いきや、その中で時間を意識させるような描写をしたり、言葉のテンポなどで読む側をコントロールしている部分はあると思う。

さらに、風景の描写が長ければ、読むのにもそれだけ長い時間を要する。


静止画面というのは、情報がその中に全て詰め込まれているので、視線移動の時間などはあるだろうが、全体を把握するのに必要な時間は、他のものに比べて格段に短い。

文章でも俳句など、短い文章ほど風景描写に適していると感じるのは、つまり風景というのは瞬間性が強いのかもしれない。


時間というのは、瞬間瞬間が連なっているのであるが、それを常に意識していることは少ない。

素晴らしい風景も、ずっと続けば慣れて常態化してしまうのであり、ということは、人が風景に心を動かされるのは、一瞬の印象なのかもしれない。


もしずっと感動する素晴らしい風景というものがあるとすれば、それは変化する一瞬一瞬について心が動かされている、ということなのだろうか。


一瞬というのは、世界の何もかもを受け止めるにはあまりに速すぎる。

写真は撮る際には一瞬かもしれないが、現像、プリント、編集などの行程もあるだろうし、絵画もそれを完成させるまでに長い時間がかかる。

その時間が一枚の中に閉じ込められている、というその感じは、情報量が一挙に押し寄せている風景の印象との相性がいいのかもしれない。


そもそも風景というのは、どんなものであれ、世界が長い歴史を積み重ねてきた末の現在の結果であり、そこには絶対に全ては把握不可能な情報がある。

その中で自分が存在するということは、世界の認知を薄め、狭めることであり、つまり見ているようで何も見えていない、といったようなことは常に起こっている。


となると、その薄められ、狭められた世界の情報をどのように捉えるか、また、それを表現するのならば、どのように表現するか、ということになるのだと思う。


時間の経過を圧縮し、より短い時間で表現する、ということは、音楽や映像ではなかなか難しい気がする。

(もちろん音楽や映像も作る時間を考えれば相当に圧縮されているのだが)

そうであるがゆえの強みもあると思うが、どうしても時間の流れと表現方法というのが切り離せないという意味では、一度に全ての情報をその場に提示できる絵画や写真に対しての憧れはあるなぁといつも思っている。


あの、すごい作品を目の前にした時の何とも言えない感覚というのは、他のものではなかなか味わえない。


そして世界はいつもそうなのだが、あまりに全部が果てしなさすぎて、どうしたらいいのかわからなくなってしまうのである。

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