イキっている人というのは、あまり好きではないのだが、じゃあ自分が全くイキっていないか、と聞かれると、そんな自信は全然ない。
イキる、というのは、調べてみると、「意気(粋)がる」の省略形らしく、その意味は
「粋だと思って得意になる。虚勢を張る。(goo辞書)」
らしい。
要は、実際の自分より、よく見せようとする社会的なアピール、といったことだと思う。
それはタイプに違いはあれ、結構普通に人はやっていることの様な気がする。
そもそも実際の自分がどれだけのもので、どれだけのことができて、という自分自身を推し量ることがまず難しい。
しかし、やってないことや知らないことを、よく見せようとするために、やっている、知っている、と言ったりすることって、経験はある。結構ある。
情けない話だが、やはり、虚勢を張っても、良く見られたい、という気持ちはあって、それが虚しいものであるとわかっていながら、一時的な自分の弱さに流され、嘘をついたり、知ったかぶりをしたり、そんなことをして来た。
それを差し置いて、他人の批判をする、というのはやはり、虚勢を張っていることになるかもしれないし、実際の自分を推し量る、ということに於いても、大きな欠陥があると思わざるを得ない。
少し話を戻そう。
そもそも、社会的に自分を有利な様に見せる行為、というのは、本来弱肉強食の世界に於いては極めて自然な行為と呼べると思う。
自分を弱者だと認識されれば、襲われたり、食べられたりするのであり、それによって他者を罠にかける、といった場合以外では、あまりプラスに働くことはない気がする。
つまり社会的にそういうアピールをしなければならない環境にいる人ほど、人間であってもそういった「弱肉強食」的な環境に近い世界で生きている、ということだと思う。
不良がより悪く、強そうに見せようとするのも、そういう自己防衛本能的な意味合いが強いのではないだろうか。
ただ、それによって弱者(と認識できる者)を虐げたり、追いやったり、圧力を加えたり、といった行為は気に入らない。
自分がそういう世界で生きているからといって、他人が同じ価値観の世界で生きているとは限らないし、マウントを取ることで、自分の優位性を確認しようとする、そういうことには、どうしても同調できない。
しかしそれも、自分がずっとそういうことをしてこなかったか、と問われれば、全く自信はないが。
自分の優位性を確認したいがために、他者を踏み台にする、というのは、つまり自信がないことの現れかもしれないが、そういう経験をした者ほど、そういった行為に勤しむことになる、つまり受けたトラウマを同じことで解消しようとする、というのはよくあると思う。
「弱い者たちが夕暮れ さらに弱い者を叩く」
とブルーハーツの「TRAIN-TRAIN」で歌われるが、本当にその通りだと思ってしまう様なことが多い。
弱い者、というのは自分のことであり、ほとんどの人間のことでもあると思う。
人間は誰しも弱いし、だからこそ自分のことを強いと思いたい、いや、こいつよりは弱くない、と思いたいのかもしれない。
そしてそれもまた弱さであり、では弱い者を叩こうとしない弱者がいるとすれば、それは逆に強者と言えるかもしれない。
強い者に立ち向かっていくことは難しい。
負ける可能性が高いし、それによって心も身体も傷つけられるかもしれない。
命を落とすことだってある。
誰もがそんな風にはなれないかもしれないが、少なくとも、弱い者を叩かない、ということに限れば、その欲求を抑制することだけでも、充分に立派だと言えるのではないだろうか。
自分が他者を踏み台にしていない、とは口が裂けても言えない(それは社会や、自分が享受している環境含め。そもそも人間は他の生物を食べることでしか生きられない時点でそういう風にできているのだから)が、それでも、それならなおのこと、そういう行為に対して敏感になるべきだし、それを少しでも抑制する為に理性は存在するのではないか?と思ったりもする。
しかし、前提として、自分が何に加担していて、何が正しくて間違っていて、というのは判断が非常に難しい。
人間、環境、生物、全ては複雑に絡まりあっていて、あちらを立てればこちらが立たず、といったことは無数に存在する。
その時正しいと思ってやったことに対しての後々の弊害というのも多分にある。
それならいっそ生きていない方がいいのではないか、という結論に至っても仕方ないと思うが、それで例え自死したところで、それはそれで自己満足に終わるだけではなかろうか。
正誤によって判断する、というのがそもそも間違いなのかもしれない。
いや、この言葉だって矛盾しているのだが。
大体、正しい・間違っている、というのは何で判断する?
全ては結果論かもしれないし、良い結果ならば正解で、悪い結果ならば誤りなのだろうか。
しかし短期的にそれがはっきりするものもあれば、そうでないものもある。
はっきりと結論を出さない方が良い結果につながることだってある。
しかし人は生きている限り、何かしらを判断しなければならないことは必ずあって、ならばその判断基準をどこに置くのか、それは非常に難しい。
明確な判断基準、それの良し悪しは別として、持っていることはとても強いことの様に思われる。
つまり、この理屈で行くと、明確な判断基準を持っている人は、強者ということだろう。
その選択が正しいか、間違っているかに関係なく、ある判断を下せる、という意味に於いては。
しかしそんな基準なんて、様々な経験、試行錯誤を元に生み出されるものかもしれず、理論であれ、理想であれ、何か実質が伴っていなければ、その判断基準を採用することなどできないのではないだろうか。
自分もできることなら強者になりたい、と思ったりする。
イキる強者ではなく、生きる強者にである。
それには自分は選択しなければならない。
何を判断基準とするのか、ということを。
強者、という言葉は誤解を招くかもしれないが、ここでの意味は、先ほど書いた様に、「何かしら明確な判断基準を持つ者」である。
そこで思ったが、「イキらない」という判断基準はどうだろうか。
いや、よくよく考えると難しいな…
まだそれを選択する覚悟がない、臆病者、卑怯者である…
まあムリに今選択をする必要はないのかもしれない。
そうやって延ばし延ばしにしてきた人生である。
ムリに選択しない、というのもまた、選択なのだから…
ということで、私はまだ、イキっている。
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