ダジャレというのはおもしろい。
笑えるという意味ではないが。
例えば「蛇口をひねると水が出る」というのは因果律である。
つまり「蛇口をひねる」(原因)により「水が出る」(結果)となるのであり、それはわかりやすい反面、発想としてはあまりおもしろいとは言えない。
一方、例えば「熊本県の問題は熊も解けん」というダジャレ、「熊本県の問題」が「熊も解けん」、そもそも熊に問題を出題する自体がナンセンスであり、言葉の意味自体も特筆すべきものはない。
では何がこの文章のポイントかといえば、「熊本県」と「熊も解けん」が同じ発音の言葉なのに全く違う意味ということであり、その二つをつなぐ言葉として「問題」の部分があてがわれている。
つまり先ほどの因果律的文章、原因があり、結果がある、という構造とは全く違っているのである。
これは韻、つまり言葉の響きで「熊本県」と「熊も解けん」という二つの言葉がつながっているのであり、因果的つながりが縦軸するならば、韻でのつながりは横軸といえるであろう。
ラップなどはその傾向が顕著であるが、韻で言葉をセレクトし、そこに因果律的意味をつなげていくことにより、文章としてより高度な構造のものになっていく。
しかもバトルであればそれを瞬間的に編み出すのであるから、その技術は本当に卓越している。
そこにリズム感、感情を乗せる力、観客に対する説得力などまで加味させるとなると、並みの才能と努力では辿り着けないと思う。
どうも人間は年齢が上がって来るにつれ、因果律的思考が強くなり、韻的志向は軽んじられる傾向にある気がする。
雲を見て、「あれは〇〇みたい」と言ったりするのは子どもの方が多い気がする。
形からそのものとは別のものを連想するのも、韻的思考と言えるだろう。
その思考には意味ではなくフォルムが重要であり、因果的思考、つまり意味に捉われがちな大人の思考からすれば、飛躍的な発想につながりやすい気がする。
心理学のロールシャッハ・テストなども、インクの形から連想するもので深層心理を顕在化させようとするものであり、そういう意味では韻的思考というのはそれぞれの人の思考の傾向、好み、心理的な引っ掛かりなどに大きく左右されるのかもしれない。
個人的に言葉のおもしろさというのは、因果的思考より、韻的思考の方に感じる。
発言でも文章でも、その言葉が選ぶ時、実は韻的部分の影響というのが非常に強い気がする。
店名、商品名、本のタイトル、歌の歌詞など、意外と言葉の響きで決めた、ということは多いし、響きの気持ちよさが人に与える快感というのを侮ってはいけないと思う。
言葉のセンスというのは、どちらかといえば韻的部分のような気がするのである。
ということでここは爆笑ダジャレのひとつでもぶっ放したいところなのであるが、全く思いつかない…
私は韻的思考のできない、発想の貧困なつまらない人間のようです…
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