Use To Be My Things

中古品というのがある。


個人的にそれを選ぶ理由は、一番は安いからである。


しかしそれでもできるかぎり新品に近いもの、キレイなものを選ぶのであり、それを少し突っ込んで考えてみると、全く知らない人の使ったという痕跡を感じたくないからだと思う。


自分の使ったものなら、多少の傷や汚れは気にしない。

ただ、どこの誰が使ったかわからないものの痕跡は、できるだけ避けたいと思ってしまう。


でもそういう気持ちとは裏腹に、世の中というのは基本的に使い回しで成り立っている。

新品というのはむしろ少なくて、ほとんどが使い回しである。

飲食店で座ったイスは他の誰かが座ったイスだし、住んだ家も新築以外は誰かが住んだ部屋である。


本当に使ったのが自分だけで完結しているものなんて、使い捨てのもの以外あまり無いのではないだろうか。


ということは、普段使い回されたものを気にせずに使っているのだから、もっと免疫があってもいいはずだが、自分の所有物となると、そういうことが許せなくなってくる。


しかし生まれた時から、すでに世界は全て借り物なのだから、そういった独占欲やエゴイズムに対してもう少し謙虚になってもいい、という気もするのだが、それでも気にせずにいられないということは、心理的なわだかまりが何かあるのかもしれない。


友達が飲んだジュースをシェアしたり、コロナ以前なら普通にしていた。

しかし、全く知らない人の飲んだジュースを差し出されても飲まないだろう。


なぜかといえば、まずはそれが安全なものなのかわからないからである。

そして気持ち悪い、という生理的・心理的な拒否反応もある。


同じ人とシェアをするということでも、知っている人、友達や家族、恋人などなら大丈夫で、全く知らない人とはできない、ということは、「知っている/知らない」の間に大きな隔たりがあるということだ。

飲食などは、特にそれを体内に取り込む行為なので、余計に警戒心が増す。

つまり飲食物をシェアする、というのは一種の信頼を示す行為と言えるだろう。


とにかく、知らない人という存在は、普段常に在りながら、ほとんどの人にはそれが意識に登らない。

それは直接的には無関係で、関係を持つこともないと思っているからであり、そのどこかの誰かが、今目の前に存在していないからである。


目の前に存在しない、どこかの知らない誰か、というのは、想像するしかない。

それがどのような人で、どのような存在で、というのは基本的にはわからないのであり、わからないから嫌なのかもしれないし、わかったら余計に嫌かもしれない。

正直知らないからできていることもあると思うし、知らぬが仏、とはよく言ったものである。


とにかく、基本的には新品が価値が高く、中古になればなるほど価値が下がっていく、というのは不思議なことだが、物質的なものが介在しなければ、シェアされることによってむしろ価値が上がっていくというのも不思議だ。

みんながシェアするということに物質的なものが介在するか否かで、価値の上がり下がりが決まってくる、とはどういうことなのか。


それはシェアした人の具体的な痕跡がつくかどうか、ということなのだろうか。

単純に衛生面や消耗しているかどうか、キレイさなどの問題なのだろうか。


うーん、よくわからなくなってきた(笑)


ので終わります。

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