道端にゴミが落ちている。
ゴミの定義というのは難しい所であるが、人間社会の中において、人間に必要とされなくなったもの、と言っていいかもしれない。
ビニール袋であれ、タバコの吸い殻であれ、空き缶であれ、人間社会の中で与えられた役割をとりあえずは終え、ゴミとなり、処分される。
中には役割を終えた途端に捨てられ、行き場もなく、道の端っこで風雨に晒されながら、誰にも見向きもされなくなったものもある。
また生み出される時に与えられた役割を全うできず、そのままゴミとなり処分されるものもある。
中には、ある人にゴミと分類されても、他の人には価値があるものもあるが。
また一部のアート作品のように、ゴミとされたものを使って作り出されることにより、新たな価値を与えられるものもある。
しかし基本的に、個人の裁量により「ゴミ」と分類されたもの、つまりゴミ箱に捨てられたもの、はゴミとなり、ゴミ収集車に回収されて処分される。
道端に落ちている「ゴミ」とされるものは、他の人間からしても「価値がないもの」=「ゴミ」と思われているから、誰も見向きもしないのであり、誰か一人にでも価値がある、と思われれば回収されて、どこかで使われたり、大切に保管されたり、するはずである。
ゴミが増える原因のひとつは、ものが溢れているからだと思う。
まず、ものが少なければ必然的にゴミも少なくなる。
また、ものに不足を感じ、それを手に入れる手段も無いとすれば、それを必要としない手段を考えるか、それに変わるものを自ら作り出すか、我慢するか、といったことになる。
そう考えると、そちらの方が人間は創造的に生きられるかもしれない。
世の中にたくさんのものがあることで、人々の生活は便利になり、ものに不足することはなくなった。
しかし、以前から言われているように、物質的な豊かさ=心理的な豊かさ、ではない、というのは、ものが飽和状態の社会で生きてきた身としては実感しているし、そうなると本当に求めるべき「豊かさ」とは心理的なものであり、その為にはもしかしたら、物質的な豊かさを放棄することが必要なのかもしれない。
ものが溢れる社会の中で物欲を抑制する、というのは難しいことである。
しかし、何が必要で、必要でないか、ということを判断するには、まず不足の状態に陥らなければわからないのではないだろうか。
そして、「本当の豊かさ」とは何か、それを考えてみる必要もあると思う。
このようなことを書いても、自分が欲望を抑制できるかと考えてみると、全くもって心許ないのであるが…
でも少しずつでもそういうことに向き合ってみる、というのは、ムダではない気がする。
何故かゴミの話から欲望抑制の話になってしまいました。
(いきあたりばったりで書いているので…)
ゴミのことに戻ります。
アート作品というのは、一見すると何の役に立つのかわからない、というか、物理的には何の役にも立たないもの、である。
それなのに社会に価値を持って存在している、というのはどうしてなのだろうか。
時にとんでもない高値で取引されるし、その金銭的価値に疑問を持った人も多くいるだろう。
物理的な役に立たない、ということは、ゴミと紙一重ということだと思う。
しかしゴミと紙一重のものが、社会的にものすごい価値を持っているということは、興味深い。
アート作品をゴミではなく、アート作品たらしめているものとは、文脈である。
アートの文脈に乗り、その中でより多く情報を持つものほど「価値がある」とされる。
先述したように、ゴミを使ったアート作品が価値を持つのも、その文脈に乗せられたからである。
つまり、世の中で、価値がないとされているものに価値を与えるものとは、文脈と言える。
ということは新しい文脈を生み出すことが出来るなら、世の中の価値観をひっくり返すことができるかもしれない。
ゴミのように、取るに足らないと思われたものが、すごい価値を持つ可能性もある。
そしてその文脈の上に更なる作品が生まれることにより、最初の作品及び、その文脈の価値も上がっていく。
行き場のないものに価値を与えるのは、新しい文脈=回路を作り出す、発想である。
以前現代美術作品を作っている友達に、
「よく、作品が良い/悪いって言ってるけど、どういうこと?」
と聞いたら
「その作品からどれだけの要素が引っ張れるか、ということだよ」
と言われたことがある。
今さらになって、その意味がようやくわかった気がする。
ということは、このブログが全然読まれてないのも、文脈に乗せられていないからかもしれないですね。
文脈=歴史と考えると、ブログの歴史をもっと勉強した方がいいのかな…
何かよくわからなくなってきた(笑)
ので終わります。
(いつもこのパターンだな…)
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