やっぱ(方言)好きやねん

昨日の内容にもあったが、文章の中で関西弁を使うことがちょいちょいある。


自分の出身は鳥取であり、育った所はトンネル一本抜ければ兵庫県という、関西圏の端っこに近い位置ではあったのだが、関西弁を日常的に使っていた訳ではなく、関西に住んでいたこともないので、要はエセということになる。


ではなぜ関西弁を入れ込むのか、というと、何か自分の表現したいニュアンスみたいなものが、標準語より出しやすいからだと思う。


いわゆる標準語というのは、硬い表現には向いているが、くだけた、柔らかい調子を出そうとするとちょっと分が悪い感じがする。

別に鳥取弁で書いてもいいのに、と自分でも思うが、すでに人生の半分くらいは彼の地を離れていて、リアルにその言葉が出てくる感じでもない。(まあ関西弁だってそうなのだが)

そもそも地元の方言で文章を書くという習慣がなく、あえてそうやって書くことに違和感がある。


そう考えると、地方人にとっては言文一致ではなく、しゃべる時には方言を使っていても、文章を書く時には標準語であり、話し言葉と書き言葉が違うことになる。


子供の頃に読んだ「一年一組せんせいあのね」という本の、様々な子どもが書いた文章が載っていた中に、関西の子が関西弁で書いている作文があり、当時違和感があった。


関西には関西弁で言葉を記す文化がある、ということだ。


「やっぱ好きやねん」なんてタイトルの曲、他の方言であるだろうか。(あるかもしれない)

「おら東京さ行ぐだ」なんて曲もあるが、どちらかというと戯画的というか、ネタとして方言を使っている感じで、「やっぱ好きやねん」は多分大真面目で、リアルな言葉として「やっぱ好きやねん」なのだ。

話し言葉と文章的表現がちゃんと繋がっていて、そこに違和感がないというのは、方言としては珍しいし、おもしろい。


関西弁以外で方言を使った文章の表現というと真っ先に浮かぶのは宮沢賢治の「永訣の朝」という詩であるが、メインは標準語、「あめゆじゆとてちてけんじや」などの部分は死にゆく妹が言ったとされる言葉で、効果を狙ってあえて使っている感じなので、岩手にそういう文化があるというのとは少し違う気がする。


でも地の文である賢治自身の内面の言葉より、なぜか妹が喋ったとされる言葉の部分の方がグッとくる感じがある。

それは地の文がちょっとよそ行きな感じがして、方言そのままの「あめゆじゆとてちてけんじや」の方が実感のある、そのシーンが浮かんでくるような、体温というか、そういうものを感じる。


言葉を口から発する時と、文章にする時、脳の中の別の部分を使っているのかもしれないし、横隔膜や声帯、口などの機関を使って身体の内側から発される「声」で表現される言葉と、頭の中に浮かんだものを文字に記す言葉とでは、何か感じさせるリアリティのようなものが違うのかもしれない。


ちょっと込み入ったテーマになってきたので、この事もおいおい考えていきたいと思うけど、今回はこれで終わります。

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