あえて抵抗しない

引き続き、表現について考えてみたい。


人気があるものには時代的なものと普遍的なものが混ざり合って存在しているのではないか、と昨日書いた。

そのことについて、もう少し掘り下げてみる。


現代には様々なテクノロジーがあり、それを使用して様々な表現が生まれる。

また、時代的な雰囲気、社会状況、また、当人が置かれた環境、社会的なポジション等によっても生まれる表現は違うと思う。


個人というのは社会や環境、血の繋がり、当人の個性など様々なものによって作られているのであり、その個人から生まれてくる創作物というのも、やはり複雑なものになってくる。


ただ、そういったことは表現することで言えば上澄みの部分、という気もする。


また、そういったものの一部分だけ抜き取って短絡的な結論に結びつけることも間違いだと思う。


一言で「時代」や「個性」とまとめるのも乱暴かもしれないが、とにかく、個別に与えられたものから、多くの人々に共通する何かしらに達することが表現することのような気もする。

その表出の仕方が音楽であれ、美術であれ、映像や文章や宗教であれ、それが普遍的なものに達しているのであれば、時代やテクノロジーといった上澄みに流されることなく残っていくのかもしれない。


ただ、それを創作者自身が目指すべきものなのかどうかはよくわからない。


残ることにどれだけの意味があるのかもわからない。

百年残ったとしても宇宙の歴史の上では一瞬であり、その中の小さな小さな星に存在する人類も、ごくごくわずかなものである。

ただ、そう考えはじめると、陥るのは虚無主義であり、ならば何も意味などない、ということになって、自暴自棄、創作など、やってもやらなくても同じじゃねえか、ということになりかねない。


人間や個人がいかにわずかで儚い存在であろうとも、それらの集合、集積によって世界はできているのであり、それなしには存在し得ない。

過去の様々な積み重ねの上に今私達は存在しているのであり、そう考えると、蔑ろにしてよいものなど存在しないのではないか?


個人の力や時間は限りがあり、できることも限られている。

それでもよりよいと思えることをやっていくこと以外にないのかもしれない。


カフカやヘンリー・ダーガーといった人々は後世に作品を残そうなどと考えてはいなかっただろう。

それでも彼らの作品は残り、未だに人々に影響を与えている。

また別に、たくさんの残したいと思った人々もいたはずで、思惑通り残った人、そうじゃなかった人もいる。

それは結局どういうことなのかよくわからない。


よくわからないけど、残っていくものは残っていくだろうし、そうじゃないものはそうなんだろうし、だからといって生きることに差はなく、それぞれの人生があるだけなのだろうし。


結論なんだかよくわからない感じになりましたが、ということで、今日は終わります。

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