作品を残したい、という願望について考えてみたい。
自分の死後、百年、二百年と作った作品が残っていくことについて、望む、望まないに関わらず、残るものは残るし、残らないものは残らない、としか言いようがないのだけど、それとは別に、作家本人がそういった願望を持ち、そういうことを視野に入れて作品を制作する、ということは往々にしてあると思う。
自分も、作品が後々まで残ることは、ある意味作品の理想的在り方として思ったりもする。
しかし同時に、作家自身がそれを望むというのは、おこがましい、とも感じる。
それは一種の欲望であり、もう少し突っ込んで考えると、他者に影響を与えたい、しかも、後々まで与え続けたい、ということで、やっぱりちょっとおこがましい気がする。
しかしいくら制作者がそう思ったところで、他者からそういう評価を得なければ残っていかないのであり、そう考えると、他者自身も自分に有用だ、と思えるものしか、わざわざ観たり、聴いたり、読んだりしない訳で、結局作家のエゴに関係なく、それぞれ勝手に評価し、利用していくのだと思う。
時間が経つことによって、同時代にあった様々な雑音が流れ去り、より純化した形で作品に接することができるようになると、その作品の本質的な部分が見えるようになってくる、ということはある。
何に、どういう影響を与えることができれば、残っていく作品になるのだろうか。
ひとつは、やはり同じ制作者に影響を与えることだと思う。
制作的技法、新たな技術を開発し、それが様々な制作者に使われていくことになれば、後々まで影響は続くだろう。
ただそれは、作品が残る、とはまた違う。
では残る作品とはどのようなものか。
感情を揺り動かすもの、なのかもしれない。
知的興奮を刺激するもの、であるかもしれない。
何かに対して鋭い洞察を持つもの、かもしれない。
普遍的価値、というのは本当にあるかもしれないし、ただの幻想かもしれない。
何にしろ、同じ人間である以上、同じ世界に暮らす以上、共通する部分というのはあるはずで、それがより純化された形で表現されていれば、時空を超えて残っていくものになるかもしれない。
事実、個人的体験として、過去の作品なのに自分のことを書かれているように思ったものというのはあるし、もうすでに死んだ作家に耳元から囁かれているような気持ちになるものもある。
そんなことウダウダ考える前にまず作れや、という感じですが、ひとつの道楽みたいなもんだと思ってもらえれば、と。
結局、残したいと思う願望を考える、というよりは、残る作品について、になってしまった感じですが。
今日はこれで終わります。
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