さみしいだけ

寂しい、という感情はどういうものなのだろうか。


寂しさを感じる時というのは「一人」だと感じる時、もしくはそう思えるようなものを見る時、また、何かが失われていくことを感じる時というもある。


一人だと感じる時、全く周りに誰もいない一人の場合もあれば、大勢の中にいるのに一人だと感じることもある。

ということは、内面的な問題、つまり外の状況がどうあれ、孤独を感じることはある、ということだ。


一人きりで、周りから見れば寂しそうでも、その人自身からすれば全く寂しくない、ということもよくある。


個人的経験から思うに、大勢の中での方が孤独を感じやすい気がする。

他の人が盛り上がっている中で自分だけ冷めている時、一人周りから浮いていると感じる時などは孤独を感じたりする。

内面と外の世界のズレ、この辺りで何となく説明ができそうな気がしてきた。


失われていくことでの寂しさというのは、あったものが無くなっていく喪失感なのだろうが、例えば好きな店がなくなるとして、その店を好きだ、と思った感情と、無くなるということの間に感情的な連続性がないと寂しさというのは成立しないと思う。

つまり思い入れがないとその店が無くなっても(おそらく)寂しいとは感じないはずで、そこには何らかの感情的な心の動きがあったはずである。

嫌な気持ちになった店なら寂しい気持ちにはならないだろうし、プラスの感情に動いたものが失われる、という時に寂しさを感じるのかもしれない。

もし全く知らない店が「無くなる」ということだけで寂しさを感じるのだとしたら、それは今までの自分の中の経験、記憶の中の似たような状況を思い出し、照らし合わせて感情移入しているのだろう。


こちらも内面と外の世界とのズレによって説明ができそうな気がする。


ということは、一人きりの時に一人だと感じても寂しさは感じない(もしくは感じにくい)のかもしれない。

例えば、遠くにいる家族や友達を思う時寂しくなるとすれば、それは家族や友達といる時のこと(この場合は記憶)と、今の外世界の状況とに落差があるからなのではないだろうか。


自己の内的世界と外の世界との差異が埋まる、ということはほとんどない気がする。


あってもごく一瞬の出来事で、常に両方はすれ違い、それによって寂しさを感じたり、思わぬことに驚きを感じたりしていくのかもしれない。


ということで、終わります。

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