さびしさ、からの…?

昨日に引き続き、寂しさに関連することを考えてみたい。


寂しさとは内面と外の世界とのズレによって起こる、と昨日書いた。

そのことをもうちょっと突っ込んで考えてみる。


寂しいと感じる状態というのは、内面世界で望むものが外の世界では実現されない時、もしくは維持することができない時に起こるのではないか、ということである。


前者は、例えば仕事での評価が自分自身で思っているより低いとか、好きな人から好かれないとか、昨日書いた、遠くにいる家族や友人を思い出して寂しくなる、というのもそれであろうと思う。


後者は、楽しい時間が終わる時の寂しい気持ちとか、夕暮れに夕日を見て寂しくなるのも同じようなものかもしれない。


つまり自らの内部での欲望の高まりと、外部との落差が大きいほど寂しさは大きくなる。


ところで、その内部と外部との落差に於いて考えられる感情に、もうひとつ思い浮かぶものがある。


それは「怒り」である。


怒りも内面の欲望の大きさとの外部との落差によって起こる。

ものすごい内圧の高まりと外圧の低さによって内面は膨張し、時に爆発する。


外圧とは、外部からの関心と言えるかもしれない。

無関心なら外圧は低くなり、多く関心を集めれば高くなる。

(マイナスな関心というのもあるかもしれないが)

例えば、他人からぞんざいな態度を取られる、なども要はこちら側の内面に対する無関心が原因であると思う。


逆に外圧が高い場合、今度は外部からのプレッシャーによる緊張や不安といったストレスに苛まれることになる。


つまり内圧、外圧どちらが高すぎてもダメなのであり、バランスを取ることが大事なのだと思うが、外圧というのはなかなかコントロールができない。

そうなるといかに内圧をコントロールするか、ということになってくる。

内圧が外圧より高いことがプラスに働けば、ハングリー精神のように頑張る燃料にもなる。

ただ極端に内圧が外圧より高く、それを向ける対象が何も見つからない場合、犯罪や暴力といった行動に走ることになってしまう。


怒りと寂しさの違いについてはまだよくわからないけど、追い追い考えてみたいと思う。


クリスマスイブに書く内容でもない気がしますが笑、まあ別に関係ないしいいっすよね。

それではまた明日。


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