我に返るスキマを埋めろ

何だかんだ、昨日で毎日更新し始めてから50日目だったようである。


たかが50日、されど50日、まだまだと思いつつも、嬉しさはある。


アクセス数はといえば、特に増えるということもなく、まあ一貫性は無いし、度々書いているように、誰が読むねんって内容なので、こんなものかもしれない。


もっと若かった頃はあまり考えてなかったが、結局全ては積み重ね、という気がする。

少しずつの蓄積が大きな変化を生み出す。

無意味に思われても「続ける」ということが意味を持ってきたりする。


と、書きながら、正直何もそこまで続いたことがない…


振り返ってみても、毎日これだけは続けてます、ということが何もない。

それこそ生理現象のレベルのことしかないかもしれない。

これまでの人生でも「あーこれはよく続いたなぁ」と思えることがない。無いなぁ…


しばらく虚無感に苛まれましたが、ということは可能性しかない!ってことで気持ちを強制的にポジティブな方向に切り換えたいと思います。


一時的にハマることはあるけど、ずっと続けている日課みたいなものは無くて、今はブログ書くことが日課になりつつあるけど、いつやめてしまうか、正直気分次第みたいな所はある。

元々飽きっぽいし気分屋なので、今思っていることが、明日になったら全く違っている可能性もある。

何だかやめることの予防線を張っているみたいだが。


一時期デッサンを毎日やっていたことがあった。

気持ち悪いと思われるかもしれないが、女性を主に描いていた。

ネットで全身の写真を探して模写していた。


一日何時間も描いていたのだが、ある日ふとおもしろくなくなってしまい、やめてしまった。

もっと続けておけば良かったのかもしれないが、その後何度か同じように描いてみてもイマイチ気分が乗らず、ダメだった。


デッサンをなぜ始めて、なぜやめてしまったのか、今でも腑に落ちる説明がつかない。

興味があったから始めて、飽きたからやめた、としか言えないのだが、特別絵が上手くなってもういいやとなった訳でも、絵に対する興味が失われた訳でもない。

思い返してみると、やっぱりちょっと虚無感に襲われたような気がしなくもないが…


そう考えると、虚無感、というのは恐ろしいものかもしれない。


人が何かをやっている時、やりがいというものの反対に位置するものが虚無感かもしれない。

なぜ虚無感に襲われるかといえば、やっていることに対して意味を感じられなくなるから、というのが大きい気がする。


やっていて楽しいなら意味はあるだろう。

ただ、その内的動機があまり無くなってきた時、何か外的な要因があった方が続きやすいと思う。

例えば仕事だってそうで、楽しくなくても、仕事というだけで続けていたりする。

そして少なくとも仕事というのは、社会的には意味の塊である。


つまり、続けたければ、仕事にすればいい、ということだ。


ただここで一つ問題がある。

仕事というのは、誰かに望まれていることである。

ちなみにここでいう仕事とは、金銭の発生するもののことである。

自分のやりたいこと=仕事、とは必ずしもならない。

というか、それがほとんどで、要はただ自分がやりたいだけで、それを誰にも望まれていないからである。


世の中にはやりたいことを仕事にできている人もいるが、それはたまたま自分の欲求とそれに見合う仕事がバッチリ合ったか、仕事になったことがやりたいことになったか、やりたいことを続けてそれを仕事にできたか、どれかではないだろうか。


結局、仕事になれば続くが、仕事にするには続けることが必要で、ということは、やっぱり先に続けることをしなければならないということだ。

惰性で続けるのは決していいと思わないが、続けることで思わぬことが起こったり、仕事になる可能性もある。

つまり、やりたいことを続けることは自分の可能性にベットし続けることでもある、と言える。


もしかしたら続けることこそが意味であり、意味を持ちたいなら続けることが必要なのかもしれない。

そうすると、こんなことになんの意味があるのか、という虚無感に襲われてやめてしまうことは、やっぱりもったいない。

せっかくならば、変に客観的になることなく、自分に酔いしれたまま突っ走って行きたい。


尊敬する作家、チャールズ・ブコウスキーの名言にこんなものがある。


「小さな種火だけは消しちゃいけない。種火さえあればまた燃え上がる」


50歳になってからやっと作家として食べて行けるようになったブコウスキーが言っているから説得力があるという気がする。


終わります。

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