人には「好み」というものがある。
これは自分の好み、好みじゃない、とかそれぞれあり、ほとんどそれによって人は自分の様々なことを決めていたりする。
じゃあそれは何かと考えると、自身にぐっと来るものを感覚的に選んでいると言えるのではないか。
理屈や思考ではなく、五感、また誤解を恐れないでいえば、雰囲気やオーラなどの第六感的なものも含まれるかもしれない。
感覚器の反応は人それぞれなので、好みが分かれる。
服などで、自分の好みでは好きだけど、実際に身に付けてみると全く似合わない、ということがある。
自分の中の好みと、実際に身に付けた時の「似合う・似合わない」の判断、そして他者から見た時の反応、どれも違うものである。
服を見た時の自分の好みは、純粋にそのデザインに対する反応であり、それを着て鏡で見た時に、はじめてそのデザインと自分自身との相性を自覚する。
その時点ではまだ実際の他者は存在しておらず、脳内のバーチャルな他者を想定して判断したりする。
しかしあくまで自分の範囲内での想定された他者なので実際の他者とは違うし、他者もそれぞれで違うので、結局のところ、何が正しいとかわからない。
よくモテる服装なんてものを聞くが、それは自分の好みではなく、自分がモテたいと思う他者から好かれそうな服装、ということであり、基準がすでに他者側にあると言える。
ならばモテたい他者自身にコーディネートしてもらうのが一番いいということになるが、それはなかなかできないので、自らで予想したり、誰かにアドバイスをもらったり、雑誌やネットでそういう記事を調べたり、というようなことになる。
大体人の好みなんてよくわからない(自分の好みだってよくわかってないが)のだから、結局多くの人から嫌悪感を抱かれることが少なそうなものが「モテる服装」ということになるのかもしれない。
そう考えると、世の中で大多数に支持されているものとは、多くの人から嫌悪されにくいもの、と言えるのだろうか。
ただ、嫌悪されにくいものとは、ひっかかりのないもの、とも言えるかもしれないし、嫌われもしないけど特別好かれもしない、という状態になりかねない。
となると、どれくらいの割合で自らの好みを混ぜ込むか、ということになるのか。
好み=個性と考えると、個性の塊と言われるような人物はかなりの割合で自分の好みに振っていて、それがどういう社会的評価を得るか、といったことを考えたりわかったりしていながらあえてそう在ることを選んでいる人もいれば、そうじゃ無い人もいると思うが、前者の場合、ある種の意志や思考を感じる。
つまり何かしらのポリシーであったり、時には政治的意味すら加味しているかもしれない。
社会的評価を気にして自分の個性を殺すよりは、その個性を好きになってくれる人を探した方が、自身にとっても関わる他者にとっても後々良い気がする。
そう考えると「好かれたい」という欲望は、あまり無い方がいいのかもしれない。
だからってそう簡単に捨てられないのだけど…
そうすると、好かれることを考えるよりも、自分の好きな人やものを見つけることの方が、好かれることへの第一歩のような気がしてきた。
好きなことを考えている時って幸せですしね。
毎度毎度行き当たりばったりで書いているので何だかまとまりのない文章になってしまいましたが、終わります。
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