名前をつけてやる

名前をつける、というのは不思議だと思う。


人間は基本的に名前をつけられる。

名前によってそれぞれを認識され、社会的にも認められる。


昔は幼名と成人してからの名前が違ったり、主人から名前の一部を賜ったりなど、一生のうちで名前の変わる時があった。

ところが現代では最初につけられた名前が基本的には一生続く。

結婚して姓が変わることはあるかもしれないが、それ以外で名前が変わることはほぼ無いと言っていい。


芸能人などで芸名という、本来自分がつけられた名前とは違う別の名前で活動する人がいる。

それはつまり、大勢の人前で活動する時と、プライベートでは別の名前が存在するということで、二重人格とまでは言わないが、別の名前を得ることで別の自分になる、みたいなことはあるのかもしれない。


そういう自分も一応「怪しからん」という名前で活動していて、もちろん本名ではないが、怪しからん的にどう、みたいなことは、無いか、無いな、今のところ…

なぜ怪しからんと名乗るようになったのか、あまり深い理由はないが、本名で活動するのは嫌で、何か別の名前を付けたいと思っていた。


名前を変えることで何か一つ区切りができるような気はしていて、気持ちとしてもまた違うし、やっぱり何か意識の違いみたいなものができるのかもしれない。



名前には基本的に姓と名があり、姓は生まれた家、つまり歴史的つながりを表し、名は個体名である。

山田太郎という名前なら、山田さん家の太郎くん、ということだ。


西洋だとこの姓と名の順番が逆になる。

歴史的にずっとそうだったのかよくはわからないが、とにかく、名の次に姓がくる。


これは勝手な見解であるが、日本では姓、つまりどこの家の人、というのがまず前提としてあり、その中での誰それ、という考え方なのに対して、西洋ではまず名、つまりその人自身があり、その上でどこそこの家の人、という意識なのではないかという気がする。


日付の書き方の違いもおもしろく、少し調べたら英式と米式で違うようだが、英式だとまず日にち、月、年の順番になる。

これは非常に合理的で、日付の中でほとんどの場合知りたいのは何日か、ということである。

月を間違えることなんてほとんどないし、年なんて日付を知りたい時にさほど重要ではない。

歴史的な資料を調べる場合などはまた違ってくるが、基本的に日常生活だとそう思う。


日本式だとまず年、月、日の順になる。

ということは日本人は前提が好きで、現在というよりは歴史的意識が強いのかもしれない。

何年の何月の何日、というように歴史に紐つけて、現在を判断しているということか。


そうすると日、月、年という順番は「現在」という時間から月、年と大きな枠組みになっていくという、今を歴史に結びつけていくような感じがする。


名前の場合も同じような感じがある。

まず家という前提があり、その中の個人という意識に対して、まず個人があって、その個人が所属する家がある、ということで、姓(家・所属するグループ)を重視するのか、個人(名・個体そのもの)を重視するのか、という社会的意識が透けて見える気がする。


もちろん先ほども書いたように、これは個人的な勝手な見解である。

どちらが現代的な精神を反映しているかといえば、西洋式だと思うが、そもそも現代は西洋の思想をベースに組み立てられた社会なので当然とも言える。


夫婦別姓などもよく議論されているが、結婚すると苗字が変わる、ということはつまり、所属するグループが変わる、ということである。


これまで書いてきたように、(現代では希薄になってきているとは思うものの)日本社会は個人より共同体の方を重要視するものなので、結婚して家族になっているのに、所属するグループ名がそれぞれ違う状態(つまり夫婦別姓)というのは共同体的にあり得ない、ということなのかもしれない。

また、生まれてくる子の姓をどうするか、という問題も出てくる。


個人という観点から見れば、結婚したらどちらかの姓にもう一方は変えなければならない、というのは非合理的だと思う。

しかもそれで変えるのが女性側というのが一般的、という状態もよくわからない。


共同体というのにこだわるのであれば、いっそのこと新しい家族として全く関係ない好きなグループ名(苗字)を考える、というのもアリだと思うがいかがだろうか。


ということで終わります。

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