「自分探しの旅」に行く若者についての否定的な意見が席巻したことがあった。
いわゆる「自分」なんてわざわざ探しに行かなくてもそこにいるじゃねえか、というヤツである。
言い得て妙、といった感じであるが、個人的にはそういう若者の気持ちもわからなくはない。
自分探しの旅、って行為は、おそらくであるが、1960〜70年代にかけてのヒッピームーブメント、東洋思想やインド旅行などが流行った時期がルーツになるのではないかという気がするが、まあその辺は詳しいソースもないし、とりあえず置いておく。
旅、特にひとり旅、というのはそれまで自分がいた環境と全く違う場所へ行くことで、自分自身やその価値観、それまでの周囲の環境を客観視し、相対化する、というのが主な目的ではあるまいか、という気がする。
広い世界を知ることや、様々な経験をすることも有益であろうが、結局戻るのは自分自身とその周囲の世界であり、それが普遍的かつ絶対的なものではない、と知ることによって、その貴重さや良さ、悪さ、それまでとは違った視点を身につけられるということである。
また一人であることによって、自己の内面と向き合う時間が増える、というのも重要かもしれない。
とにかく、そういったことによって、俗にいう「自分探し」というのが深まるのではないだろうか。
まあ「探す」ことが「深まる」という言葉遣いは正しくはないかもしれない、というか、それだとより見つけるのが困難になってきている感じがするが…
正直ちゃんと「自分」のことを見つけている人なんてどれだけいるのだろうか。
最初の言い分だと、いやもうお前が自分で、そこにいるやんけ、ということになり、そりゃあそうなのだが、その自分がどういう存在なのか、という問いはたぶん一生抱えていかなければならないテーマという気がする。
それは社会的にでもあり、自己認識的にでもあり、歴史的に、相対的にでもあり、様々な規定があると思うし、それを自身と外部とのブレが全くなしに認識できている人というのはたぶんいないのではないだろうか。
そもそも付き合う他者や存在する環境、時間的な変化もあるだろうし、そういう不安定、不確定な中で常に寸分の狂いもなく自己を規定するというのは不可能に近い。
だから結局「自分」なんてよくわからないのである。
とにかく、それまでの環境との相対化、内面と向き合うこと、などと考えると、わざわざひとり旅など行かなくても(行ける状況でもないし)今のコロナの状況だってそうだと言えるのではないだろうか。
ということは、自分探しの旅へ行こうと思っていた人にとっては、旅費は浮き、どこか遠くへ移動しなくても手間なく自分探しのできる絶好の機会なのではないか?
ということで、私も自分探しの旅(という名の引きこもり)にいってきます。
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