屁、かましたいの

屁がでる。

しかもとんでもなく。


家で一人でいる時ならいい。

どんな音、状況、態勢でも問題なく、ぶっかます。

音がでかかろうが、めちゃくちゃ臭かろうが問題ない、一人だから。


困るのは、他の人がいる時である。

そして継続した付き合いが必要な人ほど気をつけなければならない。

屁がでて付き合いが深くなることもたまにはあるかもしれないが、ほとんどはマイナスにしか作用しないであろう。


こんなに屁がでるのは自分だけなのか、知りたいが、世間話からいきなり「〇〇さん、屁って一日どれくらいこきます?」みたいなこと聞けようはずがない。

それが異性なら、その後一言も交わしてもらえないどころか目すら合わせてもらえなくなる可能性もある。


世の中には一定数屁を人前でこくことが許される存在がいるが、それは人付き合いの技術としては超絶高等技である。

うまく笑いに変えられれば一気に親密さが増すかもしれないが、失敗するととんでもないことになるハイリスクハイリターンな技であり、人付き合い弱者の自分のような人間が容易に手を出そうものなら社会的自殺に等しいだろう。


とにかく、屁というのは匂いと音の二重攻めであり、もしどちらかだけなら威力半減というか、音で「屁、こきましたよ」という信号を周知させ、匂いで嗅覚を襲撃するという、自分にも他者にも何もいいことのない機能が備わっている。


これがもし匂いだけであれば他の人と一緒に「あれ?なんか臭いねー」くらいの感じでしらばっくれていればいいのであり、自分が屁をこいたと特定される可能性は極めて低い。


また音だけの場合、あまり上品には思われないかもしれないが、匂いがあるとないとでは屁のイメージがかなり違うだろうし、ちょっとした音の出る生理現象くらいのレベルに止まると思う。


匂いと音の組み合わせ、というのは最悪で、おならは臭いものという認識があるから、こいた屁が臭くなくても悪い気分にさせるし、もし神様がいるとしたら、とんでもない機能を設定してくれたものである。


人間におならという機能が付いている以上、それをするのはごく当たり前のことなのであるが、人前ではばかられる、でもどうしても出ちゃう時だってあるじゃんねえ、生きていればそら。

それならオープンに、もう仕方ないじゃんって開き直って、気にせず屁、かませばいいじゃん、そういう世の中になればお互い様、もはや誰も屁など気にしない。

屁を人前でこいて恥ずかしがる必要も、匂いに気を使う必要もなくなる。


素晴らしい。それでひとつ、余計な悩みが解消され、世の中が平和になる訳である。


ならば私はこれから、人前放屁開闢隊という団体を組織し、人前で屁をこくことの有意性を説き、人々を啓蒙して回ろう。

これも世の為、人の為であり、後の世には、屁に生き、屁に死んだ、屁に人生を捧げた志士として、世界の人前放屁に勤しむ人々のパイオニアとして、語り継がれていくであろうことは間違いない。


これぞ自分の人生に於いてやるべきことかもしれないと今、確信した。


みなさんもぜひ、人前で屁、かましてみようではありませんか。

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