知り合いに、世田谷区育ちで、最近神奈川県川崎市で一人暮らしを始めた、という人がいる。
「うち(実家)の方も十分田舎だよと思ってたけど、一人暮らし家の近くには本当に何もない」
と言っていて、やっぱ自分の様なガチ地方山奥田舎勢とは生まれも育ちも全然違うんだなーと実感した。
徒歩圏内で生活に必要なものが何でも揃い、すぐに中心的な繁華街へ行ける場所、というのは、たぶんものすごくわずかで、ほとんどは何か買いに行くにも車が必要で、最寄りのスーパーやコンビニまででも数キロあったり、お年寄りは少ない本数のバスに乗って病院へ行ったり、タクシーを電話で呼んで来てもらったりしなければならないような場所の方が圧倒的に多い気がする。
先に書いたような場所というのは、たぶん日本の中で0.01%くらいなんじゃないかな…
他の99.99%はいわゆる郊外とか地方、田舎と呼ばれる場所で、その中にもまたヒエラルキーがあると思うが、そのわずか0.001%の場所を求めて人々はやって来る訳だからおもしろい。
東京に住み始めて思うのは、都会にも階層があって、同じ東京都内でも区や沿線、場所などによって格差があり、そういうものは終わりがないというか、地方の山奥から見れば同じ東京でも、実際には細かい区分けが成されている。
世田谷区は住んでみた感じ、郊外型住宅地の一番高級な場所、というような印象で、その場で働くのではなく、もっと都心に働きに出るイメージがある。
基本的に郊外のヒエラルキーは都心に近ければ近いほど高くなり、遠いほど下がっていく、と思っているので、世田谷区の中にもまた格差がある。
結局ほとんどの人は郊外の住み良い環境と、都心(仕事先)までの移動距離や時間、自身の予算の兼ね合いから住む場所を考えているのだと思うが、今回のコロナ禍で変わってきそうな気もする。
地方への移住者も増えていると聞くし、電通の本社売却などはその象徴的な出来事かもしれない。
ごくわずかな場所への集中と、それ以外が階層となって折り重なっている状態は、あらゆる競争と同じで、結局その価値観の上では、すべてはピラミッドの中に位置づけされてしまう。
今は考え方としても社会状況としても、集中より拡散、競争より多様性の時代になってきているし、競争が好きな人はそれでいいけど、自分はそれが苦手なので、よい兆候だと思う。
何もないと思う田舎や郊外が特別な場所に変わるのは、人であったり、思い出であったり、色々あるけど、結局個人的なもので、ということは、一般的な価値観はあんまり関係なくて、自分にとってどういう場所なのかが大事なんだよな、と当たり前かもしれないけど改めて思った。
ど田舎から都会まで色々な場所に住んで来た身としては、どこも一長一短で、結局今は世田谷区に住んでいるのであるが、引越そうかという考えは常にある。
何が自分にとって必要で、どういうことを望んでいて、何がしたいのか、結局はそういう自分の内面を深めることしか、どこへ住むか、という選択への手がかりにならないのだと感じて、もっとちゃんと考えなきゃなーと。
何でも一極集中というのはあまりおもしろくないので(そう言いながら世田谷に住んでいるけど)、もっとおもしろくなる方法を色々考えていきたいと思う。
フィッシュマンズの「宇宙 日本 世田谷」というアルバムがめちゃくちゃ好きなのだが、それまでの渋谷系という括りへのアンチテーゼという気もするし、リリースされた97年と同じ頃出てきた新しい世代、くるりとか、スーパーカー、ナンバーガール、ブルーハーブなどにしろ、みんな地方出身者、あるいは中村一義などの引きこもりやオタクと呼ばれるような人々で、そういった流れに先鞭を付けた、という感じもする。
自分も宇宙、日本(でなくてもいいけど)、の先のどこか、それを見つけたい。
結局は場所云々ではなくて自分自身ということになるのかもしれないけど、それも含めて。
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