まごころを、君に

絵心というのがある。


それがあると比較的絵が上手く描ける才能がある、と見なされる。


でもよくよく考えると絵心って不思議な言葉だと思う。


絵以外のことで心のつく、センスあるって意味の言葉って無い気がする。


って思ったけど、歌心って言葉もあるな。

何かイメージとしては、技術などよりももっと核心に近い、その物事の一番大事な所という感じがする。


絵は上手いけど絵心がない、はあまり聞かないけど、歌は上手いけど歌心がない、というのはたまに聞くし、逆にキレイな声でも正確な音程でもないけど歌心がある、というのもある。


そう考えると、やはり心の問題というか、そこから伝わってくる”何か”、心情とか感情とかそういったもの、ということかもしれない。


表現というのは感情に訴えかけるもの、と僕は思っているので、それがあるかどうか、どんなに素晴らしい技術、素晴らしい理論、思想があっても、それが感情に訴えることができなければ、表現としては最も重要なものが抜け落ちていると思わざるを得ない。


数学者が数学の理論を「美しい」と表現することがあるけど、一見感情とは関係なさそうな理論というものにも美しさを感じるということは、それはもう表現といえるし、それを美しいと感じる感性もまた、美しいといえる。


ギターでも、ものすごい早弾きとか、ナントカ奏法の様な高難度の演奏法ができたり、もちろんそれはすごいことだけど、それと表現として良いというのはまた違った問題だとも思う。


そういえば前に吉本隆明さんの本を読んだ時に、こんなことを言っていたのが印象に残っている。


文学でいえば、芥川や三島といった人間はセンスがない。

センスがあるのは何といっても志賀直哉で、だけど芥川なんかはセンスがないなりに、もうそれ以外ないって所まで文章を完成させる。

それはまたセンスとは別種のものだけど、それがすごい、志賀直哉はセンスがあって何でもすぐに素晴らしく書けるが、それで作品がいいかといえば、そんなことはない。

三島も死んだ時に武田泰淳が「刻苦精励の人」と表現していたが、その通りで、センスなんてない、ひたすら努力の人で、でも何かを持っている。

その何かがすごいから三島はすごいんだ、と。


なるほど、そういうこともあるのか、と思った。


芥川も志賀直哉もそこまで読み込んだことはないし、三島なんて一冊も読んだことがない(!)ので、吉本さんの言いたかったことが全て分かっている訳ではないけど、表現にはビジョンが必要であり、それが明確にあれば、それを表現する手法というのは、センスや技術がなくても苦心すれば手に入れられるかもしれない。


どんなに素晴らしい技術やセンスがあっても、表現するべきビジョンが曖昧だったり、取るに足らないものだとすれば、それは表現としては二流のものに成らざるを得ないのではないか。


福本伸行さん(カイジとか描いてる漫画家)の絵は決して上手いとは言えないけど、漫画としては滅法おもしろい。

福本さんより絵が上手くてもおもしろい作品が描けない漫画家は山ほどいるし、むしろ不得手な絵によって生まれた独特の絵柄や表現が、逆に個性となって作品にインパクトを与えている。


そういうことは表現においてはたくさんあって、苦手なことが武器になったり、センスのあることが足かせになったりすることもある。

だから表現したい、という気持ちがあるなら、簡単にあきらめてしまわずに、自分なりに試行錯誤すればいいのだ。

というか、本当に表現したいものがあるのなら、わざわざ他人からそんなこと言われなくても勝手にやるんだろうけど。


まあこの辺はほとんど自分で自分に向けて書いている感じなので、あんまり気にしないでください。

やりたいことがあるなら結局、がんばるしかない。

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